体験と認識―2014年12月

体験と認識―2014年12月

◆ どちらが正しいとか間違っているとか言うのが難しいと思いながらも同時に何かを敢えて「正しい」と(たとえそれが正しいと心から信じ切っていなくても)言わなければならない時というのがよくある。静的なものにせよ動的なものにせよ、真理、なるものに対するスタンスを鋭く問われている状況への不安。 

そうした「不安」。文化や思考の違い、と柔らかく言ったが、そうした言葉をさらに分析してしまえばその類いの不安はもっと膨らむだろうと思われたからもしれなくて。 


◆ ヴェルハウゼンのプロレゴメナ~、リーダーズだと原著1883年英訳1885年となっているのにKuklickは英語で既に1878年に出ていたと書いてある。どうも最初書名違いで78年に出ていたらしい。|Julius Wellhausen- http://en.m.wikipedia.org/wiki/Julius_Wellhausen 

闘争している、という感覚は、自分とは違う立場にいる(自分と等価の)人たちのことを常に意識、配慮するためにも必要な(少なくとも有用な)ものです。


◆ セラーズ研究者。2015年近刊予定の本が少し気になる|Paul Coates - Research Database - University of Hertfordshire http://researchprofiles.herts.ac.uk/portal/en/persons/paul-coates(0093608d-614a-4a94-947c-506003004144).html 


信仰の対象は一切の差異(区別立て)を許さないものでなければならない。お金なんかは速攻で排除される。恐らく国も。遺伝子だってそうだろう。ああいうものは考えるべきものであって信じるべきものじゃない。 


◆ 今度起業する方とお話し。僕は個人的な立場としては、自分達のような立場とビジネスの世界で生きている人達の立場の間にある殆ど断絶とも言えるような深いについては十分に配慮しつつも、それでもなお話をしていきたいと思っている側にいるつもりだ。にもかかわらず、その溝の深さに圧倒もされる。 

いつの日か、僕らの娘たちと彼らの息子たちが、その信仰や思考形式の違いを越えて心から語り合える日が来ればいいと思う。そのために僕らは僕らで勉強を続け、理解できる言葉で語り続けなければならないのだろう。 


◆ トリレンマ状態はただただ苦しいけど自己強化のためにもすすんで胃袋に流し込むべきなのか。2が3になり3が4になり4が5になるのか。 


◆ 自分が優しくなるのは簡単だ。人を優しくするのは難しい。それなら、と独裁者はいつも発想してしまう。色んな前提が間違っているのだろうね。 

◆ 現代人はメンタルが強すぎると思う。こんなに技術に囲まれてよく同一性を保てるよね。少しずつの進歩だからなんとかやっていけるんだろうし、タイムマシンができても未来にはなるべく行かないようにしよう。 


◆ 「心」や「知識」を再度構想、定義し直したと見受けられるロイス。このあたり、ランガーらの構想の先駆として見ることがきっとできるんだろう。時間と記号学的なものが問題になっているところからして、同時にミードとの内在的関連も気になるところ。 


Pet Shop Boysは大学3年でゼミに入ったとき4年の先輩に聴けと言われて初めて聴いたのでした。今でもものすごく好きというわけではないけれども、妙な懐かしさを覚えます。僕の数少ない先輩。何かがここにもちゃんと残っているんだって証明したがっている自分も同時に感じる。 


ライプツィヒの教会は去年の誕生日にどうしても行きたくて行った。その時の話なんかは授業のテーマとも重なるし、少し話してもよいのかもしれない。|ドイツ再統一から25周年 現代史の激動に触れる感動の旅 - トラベル - 朝日新聞デジタル&M http://www.asahi.com/and_M/information/SDI2014120820031.html


◆ これまでうまく言葉になっていなかったことを言葉にするのが文学の一つの仕事だろうし、それはこれまで見えていなかったことがらに気づかせ、さらには共有させられるということでもあるから、時には怒りや悲しみも生むし、感動で涙をも流させるのだろう。言葉によって、ああ、と、言葉を失わせられる。 

◆ 完璧さから1引かれたようなものよりも、ゼロに1足されたものの方がどうにも愛しいなんてことはよくあることだろう。そういう感覚を守るためにはどうすることが適切なのか。どう生きればよいのか。 


◆ 自分が過去にはまった落とし穴を淡々と提示していく教師でありたい。


蓄積するものに価値が宿る。そんなわけで残念ながら快楽に価値はない。快そのものを保存できたり参照できたりすることが可能になるなら話は別だろうが。


◆ 長い註を読んでいたらそれだけで疲れてしまったが、Milic Capekの50年代の論文は少し古いけど目を通しておいた方が良さそうだという気づきを得た。 


◆ どんな分野でも、大きな変化を一気に期待しすぎると、ちゃんとあった小さな変化を見落としてしまうことが往々にしてあるのだろう。期待や展望は大きくとも、現状把握に関しては小さなことを意識しつつ冷静でいたい。 


◆ リアクションペーパーを読み終えた。具体的な話が得意な人もいれば、抽象的な説明の仕方を好む人もいる。そういうことがよく解る。同じテーマでもなるべく両方向から無理のない範囲で提示していきたいものです。 


◆ キルパトリックが書いたフレーベルの幼稚園原理についての批判を読んでいるが面白い。フレーベルは「プロティノスにどこか似ていて--神への三段階の関係をつくっているようにみえる」。物質的な力が第一、自然法が第二、意識が第三段階。しかしそれら三つは区別されず「お互いに影響を及ぼす」、と。 


◆ アメリカの心理学という枠内において、思考における声帯の重要性を強調する唯物論的な発想は19世紀の中頃から既にある(ラッシュなど)。というか、もし観念史的にみることが許されるなら少なくともホッブスまでは遡ることができるわけで、このことをどう考えるか。 


◆ かれこれ何時間も少し書いては文献を読み直し、少し書いては文献を読み直し…を続けている。「書く」感覚が少しずつ変わりつつあるのを感じる。たくさんの制約のなか書くということもまた、立派に「書く」ことの一つなのだということを学びつつあります。修練。 


◆ Aを否定することで生き長らえているような人がAもたまには良いよなあとか言っているのを目撃した時にわく殺意のようなものが何に似ているかについて暫く考えていた。
  そういう殺意のようなものをうまく説明していたり、それへの対処法を的確に示しているような文章に出会うことができるならば、この世は捨てたものではないだろうと思えるそんな年末。出来ることに限りはあるが、来年も少しでも平和になってくれればいい。 


[2014年12月分 以上]

体験と認識―2015年1月


  2015年2月15日。なんだか響きがいいですね。


  日曜日の朝など時間のある時に備忘録を一月分くらいずつまとめていくのもいいかもしれない、ということで1月分を自分用にまとめました。

  もともと公開しているものなので、自分用が同時に共有用となる…これも現代のひとつの特徴ですね。倫理観が変化していく(いきつつある)気がします。




◆「人間が啓蒙されることを永久に妨げることを目的とした契約が締結されたとしても、それはまったく無効である。たとえこうした契約が最高の権力によって、帝国議会によって、そしてきわめて重々しい平和条約によって確認されたとしてもである。……もしも一つの世代の人々が集まって誓約し、次の世代の人々がきわめて貴重な認識を拡張し、誤謬をとりのぞき、さらに一般に啓蒙を推進することを禁じたとしたら、それは許されないことである。これは人間性に対する犯罪とでも呼ぶべきものであろう。」(カント) 


―2015年1月―

◆「“日々”とはいわば時間の生んだ子供である。」(カント)

◆J. B. Gilbert氏のいくつかの著作が気になっている。これは、少年非行の増加にマスメディアの影響が云々というアイディアについての史的研究。観念の社会史? “子どもと親の間に立つメディア”、この言い回しは覚えておきたい。 


◆よく言われるように、現在を記述させるメディアとしてTwitterは一歩も二歩も先を行っているが、それでも究極的には一方通行であることにかわりはない。しかもほぼ文字言語メディアだ。飛躍するには反応過程や影響の仕方をダイレクトに反映させるような仕掛けがどうしてもいる。何がそれなのか。

  写真が消えていくSNSとか、友達数を制限するものとか、色々かなりいいアイディアが幾つも実現されたが結局こんな文字メディアにまだまだ勝てない。バズった後から浮上する仕組みも、意図は知らないが結果としてはかなりよくて、前近代的な発想の割にFacebookが強いのもそこにあるんだろう。 


◆ 今年は去年まで期待しすぎてきた多くのものに対する期待の度合いをいったん引き下げたところから出発しようと思う。そしてまたそれが上がろうというなら、その時そのことを僕が否定する資格なんてどこにもないのだ。そういう態度でいつもいられたら。 


◆ 未来は現在の無力しか教えてくれない、から嫌いになりそうだ。未来の笑顔は現在の涙を微塵も救ってくれない。その未来がやって来るまでの間の時間が、永遠に課題になり続ける。現在からいったん眺めてしまえば。 


◆ 「信頼しうる人物が誰であるかを判断するために必要となる知識の量をわれわれは軽く見積もってはいけない」(J. S. ミル)


クーリエ・ジャポンの2月号より。ピケティ本の訳者山形浩生氏の「『21世紀の資本』を読む前に押さえておくべきこと」を読んだ。「「成長か格差か」という二者択一の考えに陥らないこと」が重要、ただし欧米と日本との問題の性格の違いにも注意、とのこと。 
→「日本の格差は欧米と異なり、大企業に勤務する人とそうでない人、先行世代と若者の間で問題になっています。だから私は日本においては、若者に向けた手当によって格差を縮小すべきだと考えています。」(山形) 

◆ ピケティ本の問題点を指摘する本も隣に積まれて売られてたりするから問題込みで持ち上げられているものだろうって認識だが、どうなんだろう。個人的にはあまり関わるつもりもないが(単純に、あれを読むには学史的知識が足りなさすぎるので優先順位はそっちじゃないだろうということ)。


◆ 無意識に目標として置いていることを無意識に達成してしまっているから生きる気力を失うという人もいるのかもしれない。思い描いた一つの理想だろう。悲しむ必要はないのかもしれないが、どうだろう、何か間違っているような心地も残るんじゃないか。 


◆ あるタイミングに下だと見なされた人達を、少し上でしかない人達が一斉に叩く様は本当に嫌いだ。だから“面白さ”、“気持ちよさ”を半分信じてないところがあるんだな。いじるのも嫌いだ。そんな暇あるんなら寝てろと言いたくなる。 


◆ 『アート・ヒステリー』は昔千駄ヶ谷かどこかを散歩していた時に立ち寄った小さな本屋で買ったのを覚えていたので懐かしく思った。
【自分の文章が入試問題に使われること 自分の文章が入試問題に使われること http://www.huffingtonpost.jp/sakiko-ohno/nyushi-mondai_b_6498152.html?ir=Japan&utm_hp_ref=japan】 


◆ 若いうちは一般的にダメな大人の意見と見なされているようなことを積極的に表明していった方が戦術的にはうまくいくことがある。そのあたりのさじ加減はとても難しい。ただ、若者が若者らしく振る舞うのは(若者の目からすれば)つまらないし、悲しいことだとさえ思えますね。


タイミングは一残余契機に過ぎないのでそれがすべてだと言う声に対しては抗い続けていかねばならない。 


◆ 「寝て起きて、今日。あれは本当にあったことなんだろうかと、寝起きにしばらく考える。保証がないので保留。記憶はたまにすごく当てにならない。何の安心感も与えてはくれない。そのくせ、不安は計り知れず与えてくる。そんなもんだろうが、本当にそれでいいのだろうか。しかし仕方もないこと。」


◆ 希望をみたいという気持ちと希望をみせたいという気持ちが事実として同時にある、それだけなんだよ。 

 
◆ 無意識に自分が持っていて表現してしまっているかもしれない攻撃性みたいなものにはどう対処していくのが最善なのか。 

◆ 頑固でありたい。そうあった方が正しいと思っているからだろう。しかし変わらなければいけないことも確かな場合ならどうか。頑固にも、そうありながら(結果的にではなく意識的に)変わり続けることはできるか。 


◆ “青春は脱ぎ散らかした服の山の下”、っていう槇原敬之さんの歌詞がとてつもなく好きだ。 


◆ Furlong、Lawn編のDisciplines of Education(Routledge)、1章は俯瞰で2章からが各論だが、2章からの順が教育社会学教育心理学、教育哲学、教育史、教育経済学、比較・国際教育…のならびなのですね。 


◆ 人は変わるし、周りの人も僕も大人になってしまう。もちろん、だからこそ見えてくるものも間違いなくあるわけだけどね、それが嬉しくも悲しいものであること、吉井和哉さんが昔歌っていた気がします。Just a little day。 


◆ 友人の家でひたすら経済学史を勉強する夜。友人は寝たが、用意してもらった机や椅子、珈琲のお陰で実に居心地がよい。書斎感(蛍雪)が出ている。


◆ 読んだ。|「大学で勉強する意味ありますか?」 学生の質問に、東大出身の起業家3名が出した答え | ログミー[o_O] http://logmi.jp/36649 

「色々な人から色々なことを言われると思うんですけど、人の意見を聞かないということがエンジニアとして最も大切な才能だと思います」というグノシー・福島さんの言葉、とても面白いなと思った。とっても考えさせられる。 

  そこに至るまでのやり取りは、正直会場にいたら間違いなく大喧嘩してるだろうと思うものばかりだったが(“大学を使い倒せばいい”等)、上記のような言葉が出るということに強い興味を覚えた。“話を聞くかどうか”がある場面で問題になるということ。これは社会を構想する時に無視できない観点だと思う。 


[2015年1月分の備忘録(抄) 以上]

 
 

ドーナツ・ショップ11



‐11‐


ドアを抜けると、ひんやりとした空気に身体の隅から隅までが藍色に染め上げられるような気がした。声の主の姿は見えなかったけれど、僕に不平を言う権利なんてなかった。

「個性はある時、陳腐になる。」そう書かれた薄黄色の藁半紙が、象徴的に壁に貼付けてある。恐れてはいけないのだろうけれど、事実認識として重要だろう、ふとそんなことを思った。でも、じゃあどんな時に陳腐になるんだ、と、そんなことを考えていると、まるでそんなことを考えている自分が陳腐そのものだと、そんな気さえしてきた。だから僕は何か新しいもののことを考えようとした。体中の思念や精気を指先へ集めるようにして、僕は明日のことを思った。徐々に、夜が明けていくのが肌に感じられた。



“あぁ、次の日の朝。


病いも廃れも、どことなくぎこちなくて、たぶん2時間後の朝日の方が実感を伴うものなのだろう。


ただただ願う。僕はここにいて、そこに向かう。


「大切な人たち、聞いていますか?」そんな声を聞く。

僕は応える。耳から流れるSilent Nightのメロディと共に。男性四人のコーラスが優しく、温かい。それは饗応となるのだ。この世界から、あなたへの。

「大丈夫、ちゃんと聞いているよ。」

僕はほっとする。

応えて、メロディも優しく響く。一瞬だけ盛り上がり、消える。


盛衰。


これが世界か。そうなんだな。

「これが世界なのかい?」
「あぁ、そうさ。」

微笑みが零れる。


「僕はどこへ向かえばいい?」

「少しだけでも、前に進めばいいんだよ。もしも仮に、そこにいたくないのなら、だけどね。」


僕も笑顔で応える。すると、次の部屋の扉が開く。


次の朝が来る。時計は4時27分を指している。きっとそれは事実だから、僕は信じられる気がするよ、そんな風に心の中で呟く。身体の中で、森の中で滝の飛沫に洗われるような冷ややかな感触がとめどなく騒ぐ。

「ありがとう。君が信じてくれるのなら、僕も歌いようがあるよ。それに、踊り甲斐があるね。ほら、こんな風に。」


目をつむる。景色が流れる。この世界では全てが流れる。水も、意識も、歌も、音も。まるで河のように、愉快に、おそらく全てが。

答えを急ぐ必要はないが、全てが、僕の感情なのだ。

だから、前を向いて進む。ほら、彼のように。

「生きられる分だけ、生きようとするんだよ。希望なんて無くったって、人は生きられるんだからね。」


本当か?信じていいんだな?


扉が、目の前で、音も立てずにさらに大きく開く。ただそれは、事実として。僕には、ただそれを認めることしかできないようだ。ただ、僕として。”



僕の道は決定されている。しかし、それは生きることを選んだ以上仕方のないことなのだ。

可能性は、もはやどこにもない。


今になって思う。もう、遅いのだけれど。素直に、こう言わせて欲しい。そんな風に、夜、独りになると思うんだよ。孤独に似た構成物、一つの存在としての孤独感が僕の背中を押すんだ。


お前が、正しかったんだなって。


[Originally written: Dec. 14, 2008]

ドーナツ・ショップ10

[第1部はこちらから:
http://t-kishimo.hatenablog.com/archive/category/%E3%80%8C%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97%E3%80%8D




第2部


‐10‐



…なんてこった。

この世界に迷い込んでから、一言でいうと、碌なことがない。毎日満員電車に揺られているような気分にさせられ、そこに、甘酸っぱい片思い風の心地が織り交ぜられる。どうしようもない穴を毎日ひたすら掘り続ける、そんな苦悶の中をただ泳いでいるだけだ。必要とされるのは忍耐と、諦めの境地だけ。

どこにも完成への方向性がない。あるのは不毛だけ。僕がこの世界で生み出していると呼べるものは、穴だけだ。


今日僕に話しかけてくれたやつは、確かこんなことを言っていた。「…君を王様にするよ。春のあいだ中ずっとね。…掘って、掘って、楽しみが始まるよ。」

僕はそいつの言うとおり、上に掘り、奥に掘り、また別の部屋にたどり着いた。その部屋に、彼女はいた。10畳ほどのダイニングキッチンに似合いそうな、褐色のテーブル。木製。同系色の褐色の椅子に腰掛け、同系色の珈琲か何かをすすっていた。おそらくミルクの量が少ないのだろう。きっとメインである珈琲の主張に負けたのだ。

「一応、待ってたって言うべきなんでしょうね。あなた、遅いんだもの。ま、いつものことだけど。」そう言って飲み物を少し口にして、嘲笑とも苦笑ともとれない笑い方をした。僕は何も言わず、呆然と立ち尽くし、彼女を見つめた。それは…本当に僕の知っている彼女なのだろうか。僕はやつに、彼にだまされてここまで連れてこられたのではないか。ベルトコンベアーに乗せられ、次の作業場まで運ばれる、不十分で不都合な旧型車のように…。

「はやくこっちに来たらどう?ずっと、会いたかったんでしょう?」

彼女の声はとても透き通っていて、肌も、似つかわない化粧もいつになくしっくりきている。とても魅力的だ。間違いなく、僕は惹きつけられている。…事実として。


…違和感。この違和感はどこかで覚えがある。あれは確か2年ほど前の新宿の歌舞伎町あたりで…


誰かが僕の肩を叩いた。やつだ。でも僕は振り返ることが出来ない。うまく言えないが、どうやらそこに自由はないらしい。しかしそんな中、僕は彼女に惹かれている。事実として。

「…な。来てよかっただろ?俺の言うとおりにしてよかっただろ?ここには君の望むものが、…すべてとは言えないけれども、まぁ潤沢にはある。君にとっては楽園か、悪くても天国なはずさ。…悪くてもね。」



…悪くても。頭ががんがんする。誰か、別のやつが内側から叩いているんだ。鈍器か何かで。張り裂けそうだ。ここは、どこだ。僕はいったい、今、どの段階にいる?人生は、僕のなけなしの人生は、時代はどこまで進んだんだ?


張り裂ける。次の時代を求めて。次の人生を切り開くように。意識が。僕の中で。どんどん、がんがんと音を響かせながら。好きなだけ。流れる。


…流れた。


気がつくと僕はまた、次の部屋にいた。ルームナンバーは、♯1206。僕は、自動的にノックさせられる。誰かが中から返事をする。「…入れ。」


そこに自由はないのだ。


(Originally written in 2008[12/5])

今日を下車する -1-


残り火。

過去は、凶器/狂気でもあり、治療薬でもあり。

現在は、ただ生きることを願う意志の集積。そこには、まだ、間違いも正解も記されてはいなくて。


僕は君をどう眺めればいいのか。


明日を待つ時間に、瞬間、君を疑い、目に映る光を順に追う。


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■今日
[2006年10月29日18:16]

求められてると思うようなことを、何も与えられていないと感じる時。

とても胸が痛くなります。

でも、その逆の時も。

同じようなものです。



少しでも伝わってくれればいいと、思ってはいるものの、

全部が伝われば、と願う自分もいるものです。



それは、今、この世の中で生きてる僕らには、

どうしようのない、仕方のないことで。


やっぱり、願いは続くものだな、と。


思ったりする、些細な週末。


それが、大切だったり、、って。


■今日が終わる
[2006年10月29日23:57]

東横線に揺られる、赤い光を眺めながら。

そして、胸の痛みはまだ消えなくて。

流れるレゲエミュージック、優しい声。



たった一つだけのこの電車の、この車両だけにでさえも、

どれほどの数の思いがむやみに帰ってゆくのか。


そして、みな思い思いに扉が開くたび降りていき、


今日がまた終わっていくようです。



今日、幸せでしたか?



■「いつか」と「いつか」の間に生きているから。
[2006年11月17日02:10]

「いつか」が怖い。

それは自分がいつか消えてしまうんじゃないかとか

いつか、君がどっか遠くに行っちゃうんじゃないかとか

そんなんじゃなくて



もう忘れてしまった何かにまた

足を引かれたり、つまずいたり、吸い込まれたり。

流されたり、洗われたり、涙が出るほど感動したり。



そういうことが、何となく見えちゃって怖い。


自分が全く信じられないはずはなくて

むしろ十分に今までは信じてこれたのだけれど、

ふとした拍子でどうなるかわからない弱さもまた

抱えてるんだってこと

知ってしまったら話は変わってくるんだな。




一年に一回しかやってこない秋だよ。


そっか、20年生きれば20回やってくるのか。

それでもさぁ。



今まで22回も感じてきたとは思えない空気。

それは当たり前?周りも変わる、自分も変わる?



希望は基本的に叶わないものだよ。

夢に近づけば近づくほどね。

だからなのか、叶いそうな予感を少しでも感じたとき

胸が痛くなってたまらなくなるのは。



そしてたぶん、不安ってのが一番大きくなるのもそんな時。



思ってること。夢みたいなもの?叶ってしまったらもう消えちゃっていいってね。




久しぶりにaja聴いて、なんか宇宙に飛んで行っちゃったみたいですね、そんな感覚ですか。八分間の夢模様。





違うとは言わせない。愛なんかじゃ、決してないはず。





一番好きなものは何ですか?
一番欲しい物は何ですか?




他に何もいらないと、言えるほどのものってお前にとって本当にそれか?って、

一年前の自分と、二年前の僕に、それぞれ問う。ちゃんと聞きたい。



今となって思い返すことがこんなに簡単に出来るなんてこと、

あの日の自分にとって、決して望んでいたことじゃない。なのに。



なのに、さ。


なんだろうね。


抱え込むべきもの、多すぎやしないかな。





本当は違うんじゃないか・・・?って

やっぱり言いたくなるよ。自分にも周りにも。





周りのみんなにも、自分にも。君にも。






僕の中で今最も大きなものが何なのかってことだけが

はっきりしすぎていて、どうしようもないってのはいつもの話。



何年経っても変わらないけどね。





全然違うんだよ!!!


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全然違うんだよ。


今日から眺めたそれは、美しければ疑われ、霞んでいれば再構築され、わかりやすければ悲しまれる。


明日も僕らは電車に乗り、今日のことを思う。


たくさんの無色を、あやふやに形にして、仕舞い込んで。


二十代ということ -3- 〜例えば二人が幸せそうにそこにいたとしても〜


30になりました。

なぜ、なれたのか。その理由とその意味を、ここに残します。

忘れてしまいたいことと、忘れたくないこと、決して忘れてはならないこと。

変わってしまった僕やみんなと、変わらないなにか。それは車窓からの景色に似ていて、僕をいつでも落ち着いた気分にさせてくれました。


それが、何なのか。何だったのか。その答えはいつも自分がすくい取り損ねてきた大事な大事な、言葉の群れの中に、流れるように。


五つの歴史が交差して、5つの言葉を生みました。



“もうこれ以上自分を傷付けようとしないで下さい”


“いつもの自分で会えることなら会いたいです”


“覚えてるはずの場面に、何かが付け足されて、覚えてるはずのない場面になる“


“自分が辛いなって思ってることは実はすごくちっぽけで、だけどそれを大切にしたい”


“例えば二人が幸せそうにそこにいたとしても、そこにある変わらないものに、どれだけの強さで胸が締め付けられるか ”





そのどれもが欠けても、僕は30になれなかったのです。



その誰もが欠けても、僕はここにいなかったんです。



◇◆◇◆◇◆◇◆


■もうひとつのみち
[2006年09月20日]

結局、道は二つしか無いらしい。

生きるか、生きないか。

生きないか、生きるか。


渋谷にて、新宿駅西口往きのバスを見る。少し違う。


何十回も信号の色が変わり、

何千人、何万人もの人が交差しては消えていった。


電車。海の匂い…?

いや、温泉の匂いか。記憶の中のものかな。


俺は生きていてはいけない人だということが最近わかった。しかしまだ死にたくはない。なぜだか。死なずに生きないという道を探そうとしてみた。ら、ここにたどり着いた。みんなに謝らなければならない。俺は間違いなく生きたいんです。でも、この世界じゃそれは無理みたい。



もっと優しくありたかった。出来ることならみんながみんな幸せであって欲しかった。涙なんか見たくもなかったし、流したくもなかった。

だから信じることが出来なかったんだろうか。

だから、俺は求め過ぎたんだろうか。


大切な人達に、言わせて欲しい。

もうこれ以上自分を傷付けようとしないで下さい。。

そして最後に。

月並みな言葉になるのかも知れない。でも。

親友の言葉は偉大だ。
最大限の感謝を、

ここに埋めておこうと思う。


ほんとうにありがとう。



■親愛なる皆さまへ
[2006年09月21日]


親愛なる皆さまへ


先日のことについて、毎度のことながらご心配をかけさせてしまったことと、自分勝手な自分を深くお詫び致します。

また会えるかどうか聞いて下さった人達、実際に会ってそばにいてくれた人、そのほかにも気にかけて下さっていたかもしれない方々、、心から感謝してます。

この二ヶ月くらいで精神の均衡を保っていたものが崩れて、全てがモノクロになってしまってました。誰のせいでもなくて自分の中での問題です。

でも今はほとんど色も取り戻してきたみたいで、きっと大丈夫だと言えます。

自分でも情けなく思うこともありましたし、今後はこのようなことがないようやっていきたいと思っています。

いつもの自分で会えることなら会いたいです。

本当に申し訳ありませんでした。



■雨の日になると
[2006年10月05日]


雨の日になると大切なことを思い出したくなる。

けど思い出せない

それどころか、昔のことがぜんぶぼやけてくる。

つい最近のことだって、流されて、どうしようもない。



久しぶりに訪れた山食で、ビーフシチューがおいしい。


覚えてるはずの場面に、何かが付け足されて、覚えてるはずのない場面になる。



どうしよう。笑顔が見たい。早く見たい。


マルの数だけ人生が少しずつ左回転する。



ビーフシチューがなくなる。


ひとつ何かが終わるというのは、やっぱり寂しい。


どうしようもなく、寂しいものです。



■不思議なこと
[2006年10月10日]

空が不思議と青くて、とても優しい気持ちになる時がある。

誰にでもあると思う。
そんな空を見たとき、あぁこの空を見せたいなぁって思う。

どこか別の場所で見てるかもしれないというのに。

それは、夕焼けでも星の夜でも、月が綺麗な時でも朝焼けに、くぅーってなる時でもよく似ていて、

虫の声を聞いたときや、花屋の前を通るときだってやっぱりそんな感じだったりする。


あの子も見ているだろうか、とか、あの時もこんな感じだったなとか、なんであの時晴れなかったんだろう、とか。


自分が辛いなって思ってることは実はすごくちっぽけで、だけどそれを大切にしたい。


幸せの感じ方はみんな少しずつ違うはずなのになぁって、

やわらかな風に吹かれるたび思う。


■変わらないもの
[2006年10月18日]

例えば二人がそこにいたとしても

そこにはそれぞれ別の二人が影を落としていることでしょう


二人がどんなに素敵な笑顔でも

大切に大切にしまっているものが

きっとあるでしょう。



伝えたい想いが多すぎるとき

あなたはどうしてますか?

僕はただただ泣くばかりです。

謝ってばかりです。


例えば二人が幸せそうにそこにいたとしても

そこにある変わらないものに、どれだけの強さで胸が締め付けられるか。



あったかい想いがあふれるでしょう?

でもとってもとっても寂しいんだよ


強くありたいと願うことは

弱く生きたいと誓うことと鋭く同義に聞こえるんだ。


ずっと何も変わらないから。


それは、ずっと何も変わらないからだよ。


◇◆◇◆◇◆◇◆


“ひとつ何かが終わるというのは、やっぱり寂しい。


どうしようもなく、寂しいものです。”



そうして僕は、二十代を、いや、‘二十代ということ’を終えました。



この景色とともに僕はここまでやってきた。

それがたまらなく寂しくもあり、

たまらなく嬉しくもあるのです。


それはきっとこの先も、変わることがないのでしょう。


大切な人たち全てのために。

そして、僕がこの先も、僕であったようにあるために、‘二十代ということ’の意味を、あの赤い光たちに、ここに、願います。



※夜の多摩川、いつも僕を支えてくれた場所にて、対岸の赤い光と丸子橋の光を眺めながら。[T. KISHIMOTO]

二十代ということ -2- 〜やがて哀しき2006〜


誰かにとっては、歴史を消すことはいけないことなのです。

誰かにとって、それでいくら都合が悪くなっても。

といっても、正当化を否定するつもりは全くなく、むしろそれを称揚したいくらいです。それが大切な人の希望になるのなら。


一人で生きなければいけない、そう、いつからか語られるようになり、現代でもそうしたアイディアを引きずっている人がいるようです。

一人で生きなければいけない。たとえそうだとしても、いくつかの事実には目をつむるべきではないでしょう。

身の回りの人を、相手をしてくれる人を。



“現実よ、俺を敵だと思わないでくれ”



彼が物語の中でそのように語っていたことを、僕はいつまでも覚えておきたい。

「彼」が大切と感じていた物事を、その空気感とともに、いつまでも覚えておきたい。

そう、願います。



◇◆◇◆◇◆◇◆

■迷惑をかけるとはどういうことか、願う。
[2006年08月23日]


色んな時代がある。


この時代に、君に笑えた。

傷つけられた、人、人。

寝顔が可愛かったりもした。

隣で笑う姿が、嘘に思えたことももちろんあった。

そんな時代だから、優しさは凶器にもなって

また誰かを傷付けることになる。

淋しさは目に見えない逃げ道にも、緩和剤にもなる。

それらを全て信じれば、人はどこまでも弱くなれる。なってしまう。



僕は君が嫌いだよ。

君も僕を嫌いだろう?

でも僕は君がとてもとても、大切でどうしようもない。




迷惑をかけるとはどういうことか。

何度も同じことで笑ったり、泣いたりしただろう?

明らかな嘘でも、本当に思えることもある。

空が青くなんかないことを知ってるか。

冬の空気がとても暖かくもあるって

ねぇ、知ってる?

ねぇ知ってる?

気付いてるなら、知らないふりは良くないよ。絶対によくないよ。

たまには泣いて、笑って。


嘘でも、本当でも、信じてるなら。


笑って。


笑って。



お願いします。


■一日とちょっと遅れの青春
[2006年08月30日]

サークルやら何やらかんやらで時間を使ってたら、明日のゼミのミートまでに読まねばならぬ本が全然読み終わってなかった。
やばいぞこりゃ!
そういえばいろいろ書きたいことが溜まってます。7月25日くらいのことから昨日のことまで。落ち着いたら書きます。

忙しさはあんまり口に出すべきではないです。すんません。そんな暇があったら空でも眺めましょう。

ある大切な人の頑張りに感化されて少しやる気になれてきた今日この頃。

うし、やるぞ!今夜は徹夜じゃ。


本当は今日はこんなこと書くつもりじゃなかったんです。会いたい、会えない、でも会える!ねぇどうして!?的なことを書くつもりだったんです。それなのになんか前向きな文章になってしまいました。こんな自分はもちろん好きじゃないですが、でも今日は嫌いじゃない、そんな気もします。


ちょうど昨日の夜に3人で感じた夜風のような感じ。あぁ、ふたり、ありがとう。

僕はあなたたちが大好きです。

おっと、読まねば。
んじゃ!


■2006年の9月も半ばを迎え
[2006年09月15日]

とりあえず、LaVoce夏ライブとゼミ合宿、二つの大きな出来事も無事に終わりました。

今年の夏も終わりに近づき、相も変わらず思うこと少々。例年とは心境も状況も少しは異なってるようだけれど、夏の終わりのこの感じはいつも似たようなもので。


みんな幸せですか?生きていますか?


夏ライブ。去年は新人ライブだった。今年は既存ライブ。そしてC棟なのでコンパでのオープンライブもあった。もちろんオールした。

ホール入りする前はいつも通り気持ちも沈んでいて、自分の時間の無さに不安になったりしていたのだけれど、今回は意外に準備が楽しく感じられた気がする。
いや、楽しかったのだ。終わってから思うのは当然なのかも知れないけど、もう自分の期が主体で動くライブがないというのはやっぱり少し寂しい気もする。早く終わって欲しいと思ってたのが嘘のよう。しかし人生そんなもんなんだろう。
準備期間中、本番、コンパを通してまた自分周辺の人と仲良くなれた。というか、本当に大切に思えた。夏休みだから、というのもあったがサークルに自分の生活の重きが置かれるというのはなんか変な感じ。今までの自分はなるべく残しておきたいのだが。7月後半のとある時期から、どうも変わった。気のせいと言えばそれまでだが。

本番。トップバッターだった。いつもと同じで出番直前はとっても緊張。でもなんかとても暖かい気持ちが消えなかった。あのバンドのおかげ。

ベリー。最高です。大好き。半端ない。心地良すぎる。

休止は残念過ぎるけど、ずっと感じてたあったかい気持ちはオープンライブで全部出しきれた気がするので今は割とすっきりしています。

あぁ。

あぁ。。

夏の終わりだー


夏がまた終わるよー

忘れ物取りに行かなきゃ。


みんな、ありがとう。とにかく最高の思い出がまた一つ増えました。


さてそろそろ勉強しなければ。ゼミ合宿についてはまた次の機会に書くとしよう。


9月後半、夏休みももう少し。本気を出さねばならんのはこっからだ。気合い入れてくぞ!セタメソー!!


◇◆◇◆◇◆◇◆


壮大で、どうしようもなく抗い難い、今の世の中の“なにか”。

悔しさと憧れ。

憎悪と感謝。


感じてしまう、いつの日も。

“ほうっておくと死んじゃいそうだから、わたしが守るしかない”

ぐるぐるめぐる、今といつか。

この方法で正しいのかどうか、上手くいくのかどうかもわからない。


願いは、どんな時代でも、夜風に乗って哀しい空に立ち昇る。